poponの書棚

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一押し 「カーという名の犬」 固定

 19才の青年が寿命を閉じた。

彼の母親には、「カー」と名付けられた子犬が抱かれていた。

 

彼は母親と二人、アパートでつつましく暮らしていた。

父親とは、彼が6才の時から会っていない。

彼が物心がついた時から父親が理由もなく彼に暴力を振るうようになり、母親が彼を守るように離婚したのだった。

 

青年は小学校の1年生の時からずっと引きこもって暮らしてきた。

父親に虐げられた記憶から、人と関わることに怯えを抱いていた。

それは母親に対しても同じであった。

母親は、会話を交わさず心を通わせない子供にいつも淋しさを感じていた。

 

18才の時に病名を告げられた。

母親は、彼の前では涙を見せなかった。

彼女は、出来る限りの医療を子供に受けさせてあげるために懸命に働いた。

それは、湧き出てくる感情を疲れの中に閉じ込める為でもあった。

 

青年もアルバイトをするようになった。

挨拶することですら他人に恐怖を感じる彼を奮い立たせたものは、病気への恐怖ではなく母親への申し訳ない気持であった。

着飾ることもなく働きづめの母、子供の自慢をできない母、そして子供の成長を夢見る事の出来ない母に対して。

 

19才のある日、青年は一匹の子犬を家へ連れ帰った。

青年はその子犬に「カー」と名付けかわいがった。

「カー、よしよし。」「カー、無理すんなよ。」「カー、ごめんね。」「カー、ありがと。」

ドア越しに青年の声を聞けることが母親の慰めとなっていた。

 

そして、青年は亡くなった。

 

母親は理由のない悔恨と悲しみ、そして淋しさに包み込まれていた。

そんな母親を「カー」が慰めていた。

 

ある日、母親は「カー」を洗うために小さな首輪をはずした。

小さな名札のついた首輪だった。

母親は何気なくその名札を見ると、大きな嗚咽が湧き上がってきた。

 

その名札には青年の小さな文字が書かれていた。

―母さん―

 

「カー、無理すんなよ。」

「カー、ごめんね。」

「かあさん、ありがと。」

 

小さな空間に言葉の花びらが降り積もっていった。

 

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